ごんブロ

だいたい月に一度、本や映画の感想を書きます

小説が持つ、書き手の精神を映し出す残酷な性質について

シナリオスクールに通い始めて二年目なのですが、そういえば小説の批評をしたりされたりする時に覚える気持ちについて書いたことがなかったなぁと思ったので書き留めます。

 

二年前、初めて自分の書いたエッセイを講師である小説家の先生に講評されて私が驚いたのは、文章だけでここまで私の本質が見えてしまうのか、ということでした。

先生はプロの文筆家なので、当然その批評眼も素人のそれではないのですが、それにしてもたった一二〇〇文字のエッセイ(しかも初回)で書き手の人格や本質が分かるなんて、私にとっては驚嘆に値することでした。

 

けれど私も他のクラスメートが書いた小説を読み、先生が講評するのを聞いたり、自分も批評してみることで、文章が持つ書き手の精神を映し出す性質について自覚的にならざるを得ませんでした。

 

小説の文章について批評しているのに、どう考えても小説ではなく、その人のとても個人的な部分についての話をしているように聞こえてしまう。

創作という内省的な行為の産物にはどうしても、作り手の性質や、隠していることまではっきりと浮き彫りになってしまう。

考えてみれば当たり前のことなのですが、プロのものと自分が書いたものしか読んでいなかった私には、そのことがとてつもなく面白く、そして恐ろしく思えました。

 

文章が長い人は話も長いし、あやふやな文章を書く人は思考にもまとまりがない。くさい文章を書く人は流行りが分かっていないし、自己中な人は独りよがりな文章を書く。

そのことに気づいてしまうと、小説の駄目だしをすることはその人個人の性格について言及することになりかねず、なんて難しい行為なのだろうと思うようになりました。

 

なぜ今になってこのようなことを書いているかと言うと、シナリオスクールで知り合った数人でお互いの小説をもっと深く批評し合う小さな会に参加することになったからで、メンバーの書いた小説を読んで、感想を書こうにも中々手が動かないからなのでした。は~~~むずかしい。

 

図抜けて面白い、あるいはつまらないものに対して批評や感想を書くのは当然簡単です。
けれどそのどちらでもないものに対し、ここが良い・悪いというのは、その基準となるものが私の「理想」というなんのあてにもならないものになるわけです。
つまり、相手の作品について論じなければならないのに、いつの間にかその話が自分の理想の物語論になってしまう。
書いた人にとってそれが理想の物語なら、私には刺さらないと言ったところで、いやお前に当てにいってねーしとなることが見えているわけです。

 

ということで考えれば考えるほど、批評だなんて難しいことは考えず、ここが好きだなぁと思ったところを挙げていけばいいのかなぁと思いつつも、それではこういった集まり(馴れ合いではなく本音をぶつけ合う場)をやる意味がなくない? という原点に立ち返ったり、色々と思い悩んでいます。うーーん。