ごんブロ

だいたい月に一度、本や映画の感想を書きます

『100万回生きたねこ』を唐突に理解したので書く

佐野洋子の『100万回生きたねこ』という絵本がある。めちゃくちゃ有名な絵本なので、みんな知っていると思う。何度でも転生できるふしぎなオスねこが、何度も生まれては死に、100万回目のねこ生においてある白いメスねこと出会い、死に、二度と生き返らなかったというお話である。

 

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私が生まれる前から家にあったので、幾度も読んだ絵本であるが、正直なところこの絵本がなぜ名作扱いされているのか、子どもの頃からふしぎでならなかった。

母に訊くと「これは大人の物語だから」と意味深なことを言うのみで、するとその「分からなさ」がますます高尚めいてきて、私の中で『100万回生きたねこ』は特別な絵本に位置づけされ、いつかこの物語を理解する日が来ることを望んでいたのだが、その後も色んな物語と出会い、他者との関わりあいを経て、20代になってもなお『ねこ』についてはよく分からないままだった。そして私は30代を迎えた。

昨年、能町みねこのエッセイ『結婚の奴』を読んだ。その文中に、こんな箇所があった。

 

私は『100万回生きたねこ』が分からないというところが自分の最大の急所にして命綱であると思っている。あれが分かるようになったら私は私でない。

 

プロの文筆家でも分からないのか、とすごく安心した瞬間である。

ところで、私は10代の頃から漫画家の西原理恵子の大ファンである。はじめて彼女を知ったのは『いけちゃんとぼく』で、その後『毎日かあさん』を読み、エッセイを読み、どはまりし、以来彼女の作品はほとんどを読んできた。その中に、佐野洋子との対談本『人生のきほん』がある。

この対談本は、癌によって余命わずかとなり、本当にやりたい仕事だけをしていた佐野洋子の人生最期の本となった。それが理由というわけではないだろうが(もともと西原さんは佐野洋子さんのファン)、西原さんにとってもこれは非常に印象深い対談となったようで、その後もよく彼女の作品には、このとき佐野洋子さんがお話しされた言葉が登場する。

 

リリー・フランキーさんの前書きがまた泣けるのよ・・・)

 

とても滋味深い対談本で、平凡とは言いがたい人生を送ってきた二人の女性の恋愛観、人生観が随所に現れており、当時社会人になったばかりの小娘だった私は、読んでいてただ圧倒された。

私は佐野洋子の本は『100万回生きたねこ』と、実母との60年に渡る確執を描いた自伝的エッセイ『シズコさん』しか読んでおらず、よって佐野洋子の印象は「絵本作家の女性」くらいのものだったため、対談によって浮かび上がってくる実像に驚かされた。そしてそれは、西原理恵子とも共通するものであった。というのも、二人とも、

 

・すごくモテる

・根本的に男性という生き物が好き(根っからのへテロセクシュアル)

・ダメ男も受け入れる包容力の深さ

 

という点がある。西原理恵子についてはよく知っていたが、佐野洋子さんもそういう人だったのかと、対談を読んでいて軽く驚いた。

ここに『100万回生きたねこ』を読み説く鍵がある。

もうひとつの鍵は、能町みねこさん(と私)が『ねこ』が分からないということである。

ちなみに私にはもうひとつ、分からない、というか好きではない物語がある。フェデリコ・フェリーニの『道』だ。淀川長治さんが心から愛した映画として有名な1950年代の映画で、時代を越えて観る人の心の奥深くに刺さる普遍性を持った作品なのだが、平成に生まれ育った私にはどうしても、主役の男女の扱いの差に、男という属性にだけ許される身勝手さと傲慢が透けて見え、釈然としない気持ちになる作品なのだった。

 

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なぜここで『道』の話をしたかと言えば、『100万回生きたねこ』はマイルドな『道』であることに気づいたから他ならず、つまりあの物語は「男の話」なのである。

 

自分のことだけを考え、自分のためにだけ好き放題生きてきた男が、はじめて自分のことを愛してくれる女を得て、女が死んでからようやくそのことに気づく話なのである。

ねこは白いねこの「死」が悲しかったから泣いたのではなく、この世で唯一自分のことを愛してくれる存在がいなくなったことではじめて「孤独」のなんたるかを知り、そのとほうもない痛みにむせび泣いたのである。

あの後ねこがなぜ死に二度と生き返らなかったのかという、あの物語につきものの疑問にも、今では明確に答えられる。この物語を理解出来ないでいた頃は、漠然と「もうやり残したことがないから」だと思っていたが、それは正確ではない。

「愛する者のいない世界では生きる理由がないから」がねこが生き返らなかった答えだ。

このお話に心から共感できるのは、男か、男のダメさを許せる度量のある女だけだと思う。そしてその中に、私や、能町みねこ氏はたぶん含まれないのである。

 

もうひとつ思い出す。私のオールタイムベスト・アニメ『COWBOY BEBAP』である。『COWBOY BEBAP』の最終回、主人公のスパイクが死地に赴く前、相棒のジェットに『100万回生きたねこ』のストーリーを語るシーンがある。最後まで話を聞いたジェットは、吟味するように微笑み「いい話だ」と評する。しかし、スパイクはこう返すのである。「俺はこの話が嫌いだ」と。

100万回生きたねこ』を理解できた時、連鎖するようにこのシーンの意味もようやく分かった。スパイクがどういうつもりで「嫌いだ」と言ったのかも。

私もスパイクの気持ちがよく分かる。私たちはこれからも、胸を張って『100万回生きたねこ』が分からない、と言っていい。

 

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