ごんブロ

だいたい月に一度、本や映画の感想を書きます

『3月のライオン』16巻を読んで「この物語苦手かも」と思ったこと、そして自分のこと

 

3月のライオン』16巻を読みました。

 

 

羽海野チカは私にとって、特別な作家の一人です。14歳で出会い、20代のすべての季節に羽海野チカの存在はありましたから、思えば長い付き合いです。

よく考えると、そんなに長く付き合い続けている作家は羽海野チカだけかもしれません。いま数えてみると、18年でしたので人生の半分以上の年数、羽海野チカを読んできたことになります。

だからまさかその自分が、羽海野チカさんの漫画を読んで「合わなくなった」と感じる日が来るとは思ってもみなかったのですが、人生とは得てしてそんなものなのかもしれません。

今回『3月のライオン』16巻を読み「合わないな」「苦手かも」と感じた気持ちを詳しく書いておくことは、今後の自分にとっても大事なことだと思うので、こうしてブログにしたためます。これから書くことは作品の批判ではけっしてありません。ただの非常に個人的な感想であり、私という人間の話です。

 

 

羽海野さんという人が、男女が結ばれ、続いていく物語を描く不思議さ

 

前作の『ハチミツとクローバー』の終わり方は、当時17歳だった私には衝撃的でした。「全員片想い」のキャッチフレーズで有名な本作でしたが、なんと主要キャラの5人のうち、恋が実ったのは一人だけで、主人公が恋をするヒロインが物語の最後に選んだのは「仕事」だったからです。うら若い娘であった私にはこの結末がうまく飲みこめず、真の意味で「はぐちゃん(ヒロイン)が何を選んだのか」を理解できたのはアラサーになってからでした。

また、作家というのは作品に自分自身を投影して描くものだということも、当時は分かっていなかったことの一つです。血を吐きそうなほどに自分探しをした竹本君の姿も、恋よりも仕事を選んだはぐみの姿も、ぜんぶ羽海野先生の姿だったということに私が思い至ったのは、『3月のライオン』を読んでいる最中でした。いつ、どの時点であったのかはもう定かではありませんが、この物語で描かれるプロ棋士達は、羽海野さんの姿そのものじゃないかと気づかされたからです。

羽海野チカさんという女性がどういう人なのかは、あまり多くは分かっていません。数少ないプライベートが語られたエピソードを繋ぎ合わせて分かることは、東京の下町のカバン職人さんのお家に生まれ、18歳でサンリオに就職し、その後独立してイラストレーターとなるも、どうしても漫画家になる夢が諦めきれず、恐らくはアラサーの頃に漫画家となって初めて連載したのがデビュー作『ハチミツとクローバー』であること。

その『ハチミツとクローバー』が大ヒットし、2007年から2作目となる『3月のライオン』を連載し今に至るということ。

恐らくパートナーや子どもはいないということ。大人になるまで友達がおらず、漫画家になったのは「友達が欲しかった」からということ。昨年、愛猫のブンちゃんを亡くし、そのすこし前に実父を亡くしたこと。

「こんなにも求めたら呪われてしまうんじゃないか」というくらいに欲しかった手塚治虫文化賞を受賞した時、立ったまま声をあげて泣いたこと。

私の中で、羽海野チカさんは、他者との繋がりを代償にしてまで仕事(漫画)に人生を捧げ、なおかつそれを後悔していない人というイメージでした。

そのような人が、13年間描いてきた漫画の最新刊において、主人公の桐山零とその想い人であるひなちゃんを思いっきりまっとうなカップルに結びつけ、終わりの道筋につけたことが、一つの物語として大いに納得出来はしても、『羽海野チカさんの作品』としてはどこか腑に落ちない気がしたのです。それはあまりにも彼女の人生と違いすぎやしないだろうかと。

作家は自分の人生とかけ離れたものを描くべきではないとは思いませんが、『3月のライオン』は13年間作者が己の人生を投影し続けながら描いてきた作品です。これもやはり13年間かけて今年大団円を迎えた新エヴァンゲリオンのラストが、庵野監督の人生を丸ごと投影したものであったように、長年の作品と作家は連動してしまうものだという考えが私にはあります。

またそれとは別に私自身が、健全な男女が模範的な手順を踏んで家族になるという流れに、まるで惹かれなくなっているということを、今回『3月のライオン』を読んではっきりと感じました。



ヘテロセクシュアルの男女キャラが恋をして結婚をして次世代を生むことを祝福する物語がしんどくなってきた

 

これは羽海野チカさん作品がどうこうではなく、完全に私側の事情になります。

結論を言うと、私は家父長制が嫌いです。2歳から母子家庭で育ったので、そもそも家父長を知りません。性指向で言えば異性愛者(ヘテロセクシュアル)ですが、若干アセクシュアル寄りでもあると思います。男の体は好きですが、男と一緒に生活するのはご遠慮したいからです。今32歳で、配偶者はおらず、子どももいませんが、そこに不足を感じていません。そういうわけで、私は家父長制から逸脱した人間だと言えます。だからヘテロセクシュアルの男女キャラが【恋をして】【結婚をして】【子どもを生む】ということを祝福する物語を読むと、やはりその形が正解だと作者が言ってるように感じられ、思想の隔たりを覚えます。

ただでさえ、家父長制支持者のおじさん、おばさんがのさばっている世の中で、本来自由であるはずの物語でまで『男女が結婚して子どもを産むことが人間の正しい姿』をやられると、内閣広報室かな? と思ってしまう。これはもう、ただの個人の生き方から現れる考え方の違いなので、羽海野チカさん作品がどうとかいう話ではありません。

もちろん、現実社会でのヘテロセクシュアルの男女が恋をして結婚をして出産することにも否定的な気持ちはありません。子どもが欲しい、というのは人間として健全な欲求であり、今の日本社会で一個人が子どもが欲しければ、結婚というシステムを使うほかの手立てはほとんどないのですから当然です。ただ『結婚・出産』しなよ~! と思想を押しつけられたら気持ち悪いなと思います。幸い私の周りにそんなことを口に出して言って来る人はほぼいないので助かります。

 

というわけで『3月のライオン』16巻を読んでの感想、及び自分ごとでした。ここまで書いておいて、実は『3月のライオン』16巻では主人公たちはとっても清いキスとハグをしたぐらいで、子どもなんて出来もしていない、と言えば驚かれる方もおられるかもしれません。

だから17巻以降の『3月のライオン』で、ものすごいどんでん返しがあったとすれば、私の羽海野チカさんに対する認識はここから更に180度変わり、惚れ直して一生付いていくことでしょう。でもそんなことはきっと起きないし、また13年間桐山零を見守ってきた読者としては、このまま彼が大きな河の近くで、何よりも欲しがっていた自分の家族を作っていけばいいなと思っています。