ごんブロ

だいたい月に一度、本や映画の感想を書きます

はり重に行った

二十歳から二十一歳までの二年間、難波にある専門学校に通った。

大阪のベッドタウンで生まれ育った私にとって、難波は広くて恐いきらびやかな大人の街で、目に映るものすべてが新鮮で、どこを歩くにも勇気が要った。

それでも一年が経ち友達が出来ると、わけ知り顔で心斎橋筋通りを練り歩くようになり、千日前で小腹を満たし、用事がなくとも戎橋をうろついた。そこにはたいてい、誰かしら知っている顔があった。

道頓堀に『はり重』という老舗の料理店があることを知ったのは、恐らくその頃だ。

道頓堀川のほど近くに建つ、大正建築のようなレトロな趣のある、ひときわ立派で素敵なそのお店のそばを通るたび、ここはいったい何のお店なのだろうと思っていた。

あくる日通りかかった際、隣で共に歩いていた人に訊くと、その人は特に感慨もなく「はり重や」と言った。まるで常識かのようなトーンの声だったので、私はつい反射的に「ああ、ここが」と知ったかぶりし、長らくの疑問はそこで終わってしまった。

『はり重』にはそんな響きがあった。有無を言わせないネームバリュウ。重厚、伝統、高級感。『うな重』にも似た語感。路面に面した店舗ではお肉を販売しているのが見えたので、きっと牛肉がメインの料亭なのだろう。

その安易な予想は普通に正道で、『はり重』というのはすき焼きで有名な老舗の料亭だということを、社会人になってから何かの折に聞いて知った。聞いただけであって、それでも行く機会はとんとなかった。ついこの間までは。

今月11月は、上司の定年退職月になる。私達の部署は人員たった三名の小さな部署で、上司は12月になっても再雇用として引き続き同じところで働かれるため、これといった変化はないのだが、節目として食事に行く運びとなった。

そこで『はり重』である。しかしすき焼きではない。(先輩が慄いたので。)

道頓堀にある『はり重』は三階建てで、一階は『はり重グリル』という洋食屋になっており、リーズナブルな価格で老舗の洋食を楽しむことが出来る。私はあのレトロ建築の内部に入られればもはや何でも良かったため、丁重に電話予約して席を押さえた。そして当日がやって来た。

秋晴れの気持ちの良い夕飯時、我々は『はり重』に集った。案内された席について、さっそく辺りを見渡す。薄暗い店内を照らすアンティークの照明、使い込まれた木製の調度品。壁にかかった毛筆のメニュー表。厨房から漂う洋食の香りと、食器同士が奏でるかすかな音。初めて来たにも関わらず、そのすべてに懐古の情を湧き起こされた。

きっと、テーブルで食事をする人間の姿形が移ろいゆく中で、三十年、五十年とここの光景は同じ姿を保ち続けているのだろう。変わるものと変わらないもの、二つの時間軸がゆるやかに入り混じってたゆたう、本物の老舗の空気が『はり重』にはあった。

オーダーしたのはもちん、名物のビーフカツレツ。先輩はビフカツサンドで、上司はポークチャップ。あとはサラダにワイン、ワインがなくなったあとはハイボール、デザートのプリンを食べて食事は終わった。(お会計は先輩がトイレに行くふりをして全額払ってくれた。人間斯くありたい)

前のテーブルで食事をしている家族の真ん中にいる小学生くらいの女の子が、きっと大人になっても、またここで食事をするのだろう。隣のテーブルのカップルは、もしかするとこのお店でプロポーズをするのかもしれない。はり重で繰り広げられる数限りないドラマの中に、我々の一幕も加わっていてくれれば嬉しい。

そしてふと、腑に落ちることがあった。なぜこんなにも『はり重』を懐かしく感じるのか。

はり重は、私が十六歳から四年間アルバイトをしていたレストランに雰囲気が似ているのだ。そこもやはり牛肉料理を専門とする古くからある地元の名店で、洋食、すき焼き、焼肉、しゃぶしゃぶを出していた。お店は「ママさん」と呼ばれる女将さんが取り仕切っていて、十代の多感な時期、私はそのお店で多くの、主に人間の基礎となるものを吸収させて頂いたと思う。それほどお世話になったというのに、私は一方的に不満を溜めたあげく、喧嘩別れするような形で辞めてしまった。

あの店はもしかして、はり重をイメージして作られたのかもしれない。記憶の中で符号を合わせると、ひとり深く頷けるものがある。そう感じさせるエキスのようなものが、はり重のあちこちにはあった。それとも、老舗というのはどこも似た雰囲気に収斂していくのか。それを知るためにも、私はまた『はり重』に行かねばならないし、いつかはあの懐かしい店を訪れたいと思うのである。