二年ぶりに怒るようなことがあり、事態がすべて収束したので書きます。
私が職場で在籍している部署はとてもちいさく、所属人数は3人~4人です。今では何気に私の在籍歴がいちばん長く、7年目になるでしょうか。ほかに上司(昨年定年を迎え、今は嘱託社員)、2児の母であるアラフォーの女性先輩、昨年の終わり頃から嘱託上司の後任として新たに就いた上司がいます。
2児の母であるアラフォーの先輩とは一緒に仕事をするようになっておよそ4年になります。我々の仲はたいへん良好で、職場は常に冗談や雑談が飛び交っているような環境であり、それは一見良いことのようですが、時には考えものであるということを、今回の件で思い至るようになりました。
ことの起こり
年内最終営業日の前日。年の瀬ということで、私の隣の席に座っている上司との雑談で、2021年の10大ニュースの話題が出ました。上司はご自分も近隣に住んでいるということで、大阪市西成区の崖崩れによる住宅倒壊のニュースが印象的であったことを挙げ、そこから熱海市の土砂崩れを連想した私はそれを持ち出し、「そういえば私、それで熱海市に5,000円寄付したんでした」と言ったところ、私の向かいの席に座っているアラフォーの女性先輩が、即座に小馬鹿にするように「しょーもな」と鼻で笑い、雑談はそれで終了しました。
その時の私は「えっ」とびっくりしただけで何も言い返さず、「感じが悪いな」とすこし不快になっただけでしたが、数時間が経ち家に帰ってからもその不快感は消えず、それどころかモヤモヤが体中に満ちて、なにをしていてもそのことが頭を離れなくなっていました。
しょーもなってなんだ?
『しょーもな』って、なにがしょうもないんだ?
寄付という行為がしょうもないのか?
それとも5,000円という金額がしょうもない?
どっちにしろ、なぜそんな言葉を本人に対して言うのか?
私はそうされても仕方が無いような、気に障るようなことを言ったのか?
そんな考えがぐるぐると頭の中をめぐり、なかなかいつものように眠りに入ることが出来ず、とはいえ寝て起きたらこんな気持ちも忘れているかも…という当てが外れたことを、翌朝起きてほどなくしてから気づきました。
会社に着くころには考えも煮詰まってきており、最悪の気分に。こんな胸中ではとても気持ち良くお正月を迎えることは出来ません。そんな私の事情を知らない先輩はお気楽そうです。そこで、直接本人に問いただすことにしました。
(※会話再現スタート)
「あのー…先輩。昨日私が熱海市に5,000円寄付したって話をした時に「しょーもな」って言ったじゃないですか。あれは……金額がしょうもないって意味ですか?」
「えっ!?! あっ、うん、金額。金額のことです」
「へぇ…」
「あー、でも、確かに寄付というのは立派な行為で、金額の大小でしょうもないとか、しょうもなくないとか言うべきじゃないですね」
「はい。昨日言われた時はそうでもなかったんですけど、寝る前に思い出してものすごい腹が立って、朝からもずっとモヤモヤしてて」
「すみませんでした」
「先輩にとって寄付はキショいんですか?」
「いやキショいは言ってな~い! そうじゃないよ!」
「じゃあ先輩にとって、寄付っていうのは何円からしょうもなくないんでしょうか」
「いや昨日笑ったのは! 普通寄付って一万円以上からするものだと思ってたから、5,000円っていうのは笑ってほしいのかと思って笑ったの!」
「はぁ。一万…」
「……あー、でも、仮にあなたが昨日一万円寄付したって言っててもしょうもなって言ったと思うわ。たぶん10万円だったらすごいって言ったかも。いや、でも、被災地からすると数人の10万円より、多くの人の5,000円のほうが有り難いですよね。すみませんでした。思ったことそのまま言うべきじゃないことでした」
「はい。なんか…言えば言うほどボロが出てるっていうか…。軽蔑しました」
「……」
「……」
(※再現終了)
以上が誇張も脚色もなく、可能な限り忠実に再現した会話になります。この件ではかなり腹が立ったので、周りの友人知人に開示して慰めを求め、けっこうな割合で「その先輩はクズでは」という意見の一致を受けて納得したのですが、それでもまだ若干モヤモヤは残っていました。
というのも、この話は寄付というややセンシティブな問題が入っているので、先輩をクズと断罪して終わりがちなのですが、よく考えると、私がいちばん腹が立つのは慈善行為に対する侮辱じゃないんです。
余計なひと言。
なぜ「しょーもな」という言葉を胸に収めておけなかったのか? という問題。
完全に余計な、言わんでいいひと言なんですよ。別に先輩が寄付に対して「偽善」「キショい」と思っていたとしても、それは個人の価値観なので、間違っているとか言う筋は無いんです。(先輩はそうは思っていないと言ったけれど、私はぜんぜん信じていません。寄付は一万円からが普通というのも、わざわざ確かめませんでしたが、寄付したことが無い人間だから出る言葉だと思っています。本当に一万円寄付したことがある人間は、5,000円の寄付をしょうもないなんて言えないものです)
でも、思っていることと、口に出して言うことにはとんでもない隔たりがあって、先輩という人は決して誰にでも『余計なひと言』を言う人間じゃないにも関わらず、なぜ私にはそれを言っていいと思っているのか。その侮りこそが許せないのであり、寄付に囚われてそこまで思い至らず、糾弾できなかった己が悔しいです。
私は本当は、あのとき話を終わらせるのではなく、こう続けるべきだった。
「しょーもな」っていうのは本当に、言わなくていい余計なひと言だと思うんです。先輩はもしかして「しょーもな」って言うことでなにか満足されたのかもしれませんけど、言われた私は本当に気分が悪かったし、今こうやって蒸し返されている先輩もきっと気分が悪いだろうし、誰もプラスにならない言葉じゃないですか。
もし先輩がいつも思ったことをそのまま言うような人だったら、もう仕方がないですけど、そうじゃないでしょう。もし、あのとき○○さん(上司)が5,000円寄付したわって言ったら、先輩は「しょーもな」とは絶対言わなかったと思うんですよ。でも私には、なんでこう言ったらどう思われるのかを考えずに、思ったことをそのまま言うんですか。しかも、周りに他の人がいる環境で。それは、こいつは自分にとって、気を使う価値がない人間なんですよって周りに言ってるに等しいんじゃないんですか。そのことに私はとても傷つきました。先輩は私とそういう、お互いに尊敬も礼儀もない、思ったことをそのまま言い合うようなギスギスした関係になりたいんですか。
37歳にもなって、これを言ったら相手がどう思うのか、口にする前に考えられないんですか?
長いしヘヴィだわ。
けれども、このときああ言えば良かったっていう気持ちや言葉は、書いて吐き出すことがいちばんの成仏になるらしいこと、あとなにより『余計なひと言は災いの元である』ということを己自身にも戒めるためにこうして書き残しておきます。
この件を受け、しみじみ「あ~何円寄付したかなんて、今後人に言うのはやめよ~~~」と一度は思ったのですが、これこれに何円寄付したよっていうことは人に言ったほうが、言われたほうの寄付に対するハードルが下がる気がするので、やっぱり言っていったほうがいいのかなと今では思っています。
なぜ私が寄付をするのかと言うと、そのきっかけはどう考えても、ほかならぬ私自身が、10年前東日本大震災が起きたころに、当時フリーターで私よりも収入が少なかっただろう友だちから「私2,000円寄付したよ」って聞いたことだと思うからです。
とはいえ、こうやって怒ったために、その後の私と先輩の関係性は非常にぎくしゃくとし、年明け以降も一週間以上気まずい空気が流れたのですが、先輩からの歩み寄りと、お互いの関係性が悪いと仕事のパフォーマンスも十二分に発揮できないことがこの一週間でよく分かったため、今では普通にもどっています。
怒るのはいいけれど(いや良くないんだけれど)、怒ったあとというのがまたものすごい関門で、怒ること以上に、怒ったあとの自分の上手なコントロールを学ばなければいけないなぁと思うこの頃です。
余計なひと言で思い出す、とある名作漫画☞
『MENU 猫の好きななまり節』は「余計なひと言」をテーマとした、珍しくも秀逸な作品です。
ということでスッとすべりこませる過去記事✍
それにしても、私の人生で「怒った私」の扱い方がいちばん上手だったのはこの人だったなと改めて思うなど・・・