ごんブロ

だいたい月に一度、本や映画の感想を書きます

【感想】絶対に読んでほしい、勇気に関する物語 ―カン・ファギル『別の人』―

最近一番羨ましいのは、私の話を何の意味もないと思える人のことだ。私も、自分を理解に苦しむ女だと思いたい。そういう目で自分を眺めてみたい。永遠に理解できず、わかりたいとも思わない、自分とは完全に別の人。

(引用:カン・ファギル『別の人』P12)

 

 

ソウルの旅行会社に勤める32歳の女性、キム・ジナは上司で恋人のイ・ジンソプからの度重なる暴力をインターネット上で告発するが、その結果彼女が得たものは、職場からの実質的な解雇と、裁判によって認められたわずかな慰謝料30万円だけで、元恋人からは謝罪の言葉すら得られなかった。インターネットでは彼女を擁護し称賛する声が上がる一方で、誹謗中傷する声も止まず、次第にジナは部屋に引きこもっていく。

来る日も来る日もエゴサーチをしていたジナは、Twitterにおけるあるツイートを見て、たちまち12年前の過去に引き戻される。

『キム・ジナは嘘つきだ。真空掃除機みたいなクソ女。』

ジナは書きこみをしたと確信する人物と会うため、12年前大学生時代を過ごした街、アンジンを訪れる。

 

 

ジェーン・エア』を最初に読んだ時のことを覚えている。それは勇気に関する物語だった。

(引用:カン・ファギル『別の人』P299)

 

 

『別の人』は意外な物語だ。性暴力被害に遭った女性がどう立ち直っていくのかという、痛ましい再生の物語かと思えば、途中でその印象は変化する。ジナが大学生時代を過ごしていたアンジンには、12年前事故死した“真空掃除機”と蔑称される一人の女子大生がいた。ジナは生前の彼女に良い印象を持っていなかったが、アンジンへもどり彼女のことを調べ始める。それはさながら謎を追うミステリーである。

章が移り、もう一人の主人公であるスジンへ視点が変わると、ジナという女性が他者の目からどんな人間として映っていたかが語られることになる。その容赦の無さは強烈で、この物語がただの「性暴力を受けた女性の心の傷と再生」を描いたものではないことがはっきりと伝わってくる。人間はどんな人物でも自分本位で、ある場面では被害者である人間も、別の場面では加害者となりえ、それは性暴力被害者であっても例外ではないということを、著者は明示する。

しかし本書は断罪の物語ではない。『別の人』を一言で表すなら、これは勇気に関する物語なのである。

この物語には三人の女性が登場する。彼女たちはそれぞれ別の人生を歩む人間で、その道は一見まったく交わらないように見えるが、ある共通項によって分かちがたく結びついていく。

もっとも勇気のいることは何か。『別の人』はそれを教えてくれる。本書に登場する女性たちは、皆それぞれに勇気があり、身にふりかかった出来事と戦う。しかし敵は強大で、彼女たちは何度でも打ちのめされ、潰されていく。それを打開したのは、ジナのもっとも勇気がいる行為だった。

この世には、戦うことよりもよほど勇気が必要な行為がある。恋人からの暴力を世間に告発するほどに勇気のあるジナですら、難しかったこと。それを乗り越えて、彼女たちは前へ進む。勇気という、人生の困難においてもっとも必要な資質を握りしめて。『別の人』は読む者を力づけてくれる、稀に見る傑作だった。

 

二度と顔を合わせたくなかった。完全に忘れて生きたかった。あんたは私の人生で、なかったことになっているから。(中略)私は新しい絵を描きたかった。そんなことは叶わない。実際の私はその下絵を隠すためにあらゆる色を上から塗りたくっていただけ。でもわかっていた。下絵とちゃんと向き合わない限り、いくら上から塗っても画用紙は余計滅茶苦茶になるだけだということを。なかったことにはできない。それは私に本当に起きたことだから。
あんた、そしてあんた、そして別の人。

(引用:カン・ファギル『別の人』P286)

別の人

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